
北海道中学硬式野球の象徴とも言える札幌新琴似リトルシニア。その屋台骨を長年にわたり支えてきたのが生嶋宏冶監督だ。御年64歳、指導歴は39年目。全国大会での輝かしい実績はもちろん、その根底にあるのは「子どもたちの未来のため」という強い思い。野球だけではない、人間教育に力を注ぎ続けてきたその歩みを、人間味あふれるエピソードとともに振り返る。
北海道野球界を牽引してきた名将の歩み
「全国記念大会・制覇2回、日本選手権・準優勝、ベスト4、ベスト8」——数えきれないほどの輝かしい実績を重ねてきた札幌新琴似リトルシニア。今回は、そんな名門チームを率いる生嶋宏冶監督の“青年監督時代”にフォーカスして執筆させていただきました。
春季全道大会・釧路リトルシニア戦後のインタビューで、生嶋監督は迷いなく語りました。
「今年のチームはまだまだ。ゴロが多いし、この時期にしては打球が上がってこない」——。
その言葉には、これまで積み重ねてきた経験と、今の課題、そして未来への期待がにじんでいました。
選手たちが「努力している」と口にしても、「俺に言わせりゃ足りないよ」と一刀両断する姿勢。
それは、伸びしろに真剣に向き合っているからこその厳しさであり、深い愛情の裏返しでもありました。
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運命を変えた、札幌新琴似球団との出会い
札幌商業高(現・北海学園札幌高)を卒業後、㈱東芝北海道支社に入社した生嶋氏。
同僚からの誘いで札幌新琴似のコーチを手伝うようになったが、その同僚が夏に転勤。
引き継ぎの形で続けるも、当時の元プロ監督から「礼儀なんか教えず、技術だけ教えろ」と言われ葛藤した。
「プロの技術は教えられない」と球団を離れようとしたが、選手の保護者たちが自宅に押しかけ「監督を辞めさせたから、あんたがやってくれ」と懇願。
最初は断るも、「責任はあるから3年だけ」と、25歳で監督就任を決意した。
苦難と再出発のはざまで
就任2年目の1987年、日本選手権道予選準決勝で敗退し、選手たちは号泣。
その姿に「子どもたちの夢を壊した」と生嶋監督も肩を落とした。
そこに現れたのが札幌白石リトルシニアの畑陽太郎氏(現アカシヤファイヤーズ・畑監督の父)。
「バカヤロー!そんなんで辞めるな!」と一喝され、気持ちが一変——「よし、絶対強いチームにしてやる」と覚悟を固めた。
それでも団員は少なく、秋の新人戦には少年野球チーム(三和ジャイアンツ)から選手を借りて出場するなど、まさにゼロからのスタートだった。
バスを運転してでも、選手を守る情熱
当時は会社の休みが思うように取れず、土日休みの会社への転職を考えていたが、偶然、札幌市営交通に空きが出たと聞き、ダメもとで試験を受けたところ、見事に合格。生嶋監督は札幌市営交通へと転職した。
市バスの運転士となった29歳の生嶋監督は、「札幌新琴似に通わせたいが送り迎えができない」という家庭の声に応え、リースしたマイクロバスを自ら運転して送迎を始めた。
それは自宅のある東区から、南区、北区、そして練習拠点である丘珠町の室内練習場までを回るルートで、冬期間限定の送迎だった。
33歳のときには、市営バスの払い下げ車両に目をつけ、自費で20万円を支払って購入。毎週末、このバスを自ら運転し、選手たちを送迎した。
マンパワーで選手を集めるこの情熱に、周囲の理解者たちも心を動かされ、支援の手を差し伸べるようになっていった。
初優勝とその後の快進劇
努力が実を結んだのが1990年。エース安井謙一を擁し、日本選手権北海道予選、道新スポーツ旗、全道選手権を初の完全制覇。
安井はその後、東海大四高(現・東海大札幌)で甲子園出場を果たし、高校日本代表入りも経験した。
以降、札幌新琴似は強豪としての地位を築き、甲子園出場選手は88人、プロ野球選手も6人を輩出する名門に成長した。
人間育成こそ、最大の喜び
「控えだった子が高校でレギュラーを掴み、甲子園で活躍してる。それを見るのが本当に嬉しい」と生嶋監督は目を細める。
中学野球は通過点。その先で羽ばたく姿こそ、自らの原動力。
熱意と行動力、そして選手への深い愛情——39年間、一貫して貫いてきたのは「人を育てる」ことだった。
<発行人>
39年にわたり中学野球の最前線を走り続けてきた生嶋宏冶監督。その情熱と行動力は今も衰えることなく、選手一人ひとりの未来を真剣に見つめ続けている。「野球を通じて人を育てる」——その信念のもと、これからも北海道の球児たちの夢を後押しし、さらなる歴史を刻んでくれるに違いない。


